Itsuki Misuna

祝福の言葉


 リビングに向かう扉を開くときには、柄にもなくやたらと緊張した。そこはひどく懐かしい感覚を呼び起こす部屋だった。
 扉を背にそっとわきに寄り、背後に立つ男を室内へと促す。窺うように首を傾げた彼と一瞬だけ視線が絡む。
 ふたりきりのときにしては珍しく、固い表情をしていた。彼もまた緊張しているのかと思ったら可笑しくて、口もとがほころぶ。それに気付いたのか、男がふと足を止めた。
「ニール?」
「いいから、入れよ」
 軽い口調で言ったつもりなのに、わずかに声が震えた。
 気に入ってくれるだろうかと思う。迷った末にこの家に決めたのは、この部屋に帰りたいと思えたからだった。自分のために買った家には違いないけれど、彼が喜んでくれなければ意味がない。
 足を踏み入れると同時に目の前に広がる鮮やかなグリーン。突き当たりの壁には大きな出窓があり、中庭を埋め尽くす木々の緑がその空間を満たしていた。
 天井の一部は屋根裏で、ゆるやかな傾斜の中ほどに小さな天窓が設えられている。そこから降り注ぐ朝陽のまぶしさに、ニールは思わず右の手のひらを目の上にかざした。
 風にそよぐ木の葉の影が室内の床やソファに落ちて、ゆらゆらと揺れている。
「どう?」
 呆然と立ち尽くしている男の反応が気になっていた。それでいて顔を見る勇気が出ずに背中に問い掛ける。
「ああ、きみらしいな」
 笑みを含んだ声音でそう言われ、じれったいような気分になる。
「それじゃ、わからねぇって。あんたも暮らす家だぜ、もっとこうしたいとか」
「私の中できみらしい、と素晴らしい、は同義なのだが?」
「……。あんたが全部任せるって言うから、俺好みの家を選んじまったんだぜ」
「それでいい。私にはよくわからないからな。それより、くどいようだが、半分支払わせてはもらえないのか」
 振り返るなりそんなことを言い出す男にひと言、「くどい」と言ってやると、ニールはキッチンに向かった。
 キャビネットからグラスをふたつ取り出し、カウンターに置く。冷蔵庫を開けると、買ってきたばかりのミネラルウォーターのボトルとレモンをつかみ取った。
「古家を安く譲ってもらって、ちょっと手を加えただけだぜ。あんたが払った俺の治療費の方が高かったはずだ」
「それは私が勝手にきみを」
「ああ、もう! だからいいんだよ、そんな話は」
 手にしたナイフを振り回しつつそう言うと、それを見ていた男が目をぱちくりさせた。
 ひとつ咳払いし、レモンをスライスする作業に移る。瑞々しいしずくが散り、キッチンに爽やかな匂いが立ちのぼる。
「いい匂いがするな」
「だろ? 喉渇いちまって……ああ、座れよそこ」
 立ったままこちらをじっと見つめてくる視線が妙に気恥ずかしくなり、グラスを持った手の片方の人差し指を突き出して、ソファを指し示した。彼がソファに腰を下ろす気配を確認すると、ニールはトレーにグラスをのせ、ひとつため息を付いた。
 ニールが病院で目覚めたことを知らないまま、修行と戦いに明け暮れていたグラハムが戻ってきてから、すでに半年が過ぎていた。彼とふたりきりでいることなんて、特に珍しいことでもない。なのに、これからこの家でふたりで暮らすのだと考えるだけでひどく緊張してしまうのはなぜだろう。
 彼の目の前のテーブルにグラスを置くと、ごく自然な仕草で腕を取られた。
 至近距離で見つめられ、はっと息を呑む。
 爽やかな新緑に似た色合いの瞳と陽の光を思わせる金の髪は再会する前と変わらない。だが、彼の右頬には、六年前にはなかった大きな傷痕があった。
 そう、こちらには完全な治療を施させたくせに、彼はあの戦いの傷痕を消さなかった。男の身勝手に一度は腹を立て、再会してまもなく、もはやこれで絶縁かと思うほどの喧嘩もした。だがさんざん罵って、それでも時間をかけて話し合い、彼の気持ちを慮れる程度には落ち着いた今、腹が立つことはなくなった。
 ただときどき、哀しくなるだけで。
「すまない、そんな顔をさせたいわけではないんだ。ただ、どう伝えていいか。きみには本当に、感謝してもしきれない。だが私は――戦いに固執し、きみの仲間とも幾度も戦った。きみを置き去りにし、きみが目覚めたときすら戦いに明け暮れていた。そうして今また戦いの場に戻ろうとする私を許してくれるのかと、」
 病院のベッドでもう何度も聞いた告白を今ここで繰り返すことはないだろうと、ニールは慌てて彼の口もとに人差し指を立てて見せた。
「もういいって。悪かったよ。俺が変なカオしたせいだろ? まだ慣れてねぇんだから、許せよ」
 言いながら、グラハムに乗り上げるような姿勢で傷痕の残る右頬にくちづけた。
「……ニール」
 ついでとばかりに唇に吸い付くと、彼の利き手に肩をぐっとつかまれ、引き寄せられた。
 どちらからともなく舌を差し出し、ゆるゆると舌先を擦り合わせる。
「ん……」
 くちづけながら彼の首筋に、胸に触れた。切ないような衝動が沸き起こり、グラハムの白いシャツのボタンに指をかける。ゆっくりと、ひとつひとつボタンを外していくにつれ、胸の奥が軋むように痛んだ。
 鍛え上げられた頑強な身体の右半分は、頬と同じように赤みを帯びた傷痕が刻まれている。刹那の操るエクシアと戦って、爆風に灼かれた痕であることは、最近知った。
 衝動のままに胸の傷痕に唇を寄せ、ニールは微笑んだ。
 グラハムの手がやんわりと髪を梳いてくる。
「俺がこうしてんの、何か矛盾してるな。この傷を負わせたのは、」
「きみではないよ」
 遮るようにそう口にして、グラハムはニールの額にくちづけた。
「同じようなもんだ。あんたの胸に憎しみを植えつけた」
「だがきみは、同時に私が今まで知りえなかった安らぎと、あたたかな感情を教えてくれた。この匂いも、このぬくもりも、きみがくれたものだ」
 彼のシャツを握り締めていた右手を取られ、くちづけられる。ふわりと立ちのぼったレモンの香りを嗅いだ瞬間、急に目頭が熱くなった。
「今この奥に、きみが愛しくてたまらないという気持ちがある。それだけは確かだ。だから戦いに赴いても」
 胸の奥からこみ上げてくるものを抑えきれなくなりそうで、ニールはうつむき、ぐっと唇を引き締めた。
「ここに帰ってきたい。――今までで一番幸せな誕生日だ。ありがとう、ニール」
 苦しいのに、心が喜びで満たされていくのがわかって、彼が今一番ほしかった言葉をくれたのだと知った。
 ハッピー・バースデー、グラハム。
 喉が詰まって声にならなかった祝福の言葉を、いつか笑って言えるだろうかと、抱き締めてくる腕のぬくもりを感じながらぼんやりと思った。

         

inserted by FC2 system