Saho Kagami

 約束


 その年の9月10日を、グラハムはホーマー・カタギリのハワイの私邸で迎えた。


 わざわざグラハムの誕生日を一番最初に個人的に祝ってくれようとしたのは、グラハムのことを何かと目にかけてくれたスレーチャーだった。誕生日おめでとうの言葉やプレゼントなどはなかったが、その日グラハムが一人そのまま帰っていこうとするのを知って、飲みに引っ張って行き一杯奢ってくれた。気紛れだとぶっきらぼうに言われたが、グラハムはそれまでそんな扱いを受けたことがなくて、正直少し戸惑った。
 カタギリと出会ってからは、彼が律儀にグラハムの誕生日を憶えていて何かと祝ってくれた。そこにハワードやダリルが加わったりもした。彼らはとても自然なことのようにグラハムの誕生日を祝ってくれた。
 グラハムはその中で、誕生日祝いという習慣を覚えた。祝い祝われるということが嬉しいものだと知った。


 今朝カタギリからメールが入っていた。今年は直接祝えなくてごめんという言葉と共に、ハッピーバースディというメッセージがあった。
 今年グラハムに送られてきたメッセージはカタギリからのその言葉のみだった。変わらぬカタギリの気遣いを嬉しく思うと共に、去年とは対照的だなと、グラハムは小さく笑みをこぼした。
 一年前は――ユニオンの基地では、カタギリに加えて、オーバーフラッグスの面々がグラハムを祝ってくれた。にぎやかな場だった。思えばあのメンバーで揃って酒を酌み交わしたのは、あれが最後の機会になった。そう考えると、記憶の中の彼らの笑顔がより一層輝かしいもののように思えてくる。
 まだ、あのように奪われていくものだとは思いもしなかった頃のことだ。己の手にしているものがどれほどかけがえのないものかも知らずに、傲岸不遜に享受していた時のことだった。
 グラハムは過去を振り払うように、頭を大きく振った。けれど、振り払いきれずに、一つの面影がまた脳裏に浮かぶ。
「……ール」
 一年前の笑顔が鮮やかに蘇る。そう、去年のこの日を共に過ごした。珍しくほぼ定刻で軍を後にしたグラハムは、彼を自宅へと招き入れた。
 運命のような偶然である日出会い、わけもなく惹かれた青年。初めてグラハムの方から積極的にアプローチを重ねた。彼に受け入れてもらえたことに、深い喜びを覚えた。
 彼の癖のある栗色の髪が好きだった。深い色を秘めたターコイズブルーの瞳も。身長差や、ともすれば年齢が逆転してみえるような互いの容姿については少々複雑な思いもあったが、時折見せる彼の年相応な笑顔が好きだった――


 あの日は彼の予定が空いていて、しかもたまたまユニオン領内にいたということもあり、グラハムの誘いに応じてくれた。
 一緒に食事をしようと外で待ち合わせると、彼は時間通りに待ち合わせの場所へと現れた。
「久しぶり」
「ああ。君も元気そうだな、ニール」
 ニールは、グラハムの手にしていた紙袋に気付いて視線を向けた。カタギリたちからの物を含め、軍の関係者から貰ったプレゼントが入っている袋である。事務の女性たちから連名で渡された小さな花束が顔を覗かせていた。
「……何か式典でもあったのか?」
「ああ、これか。個人的な物だ。今日、誕生日祝いにと貰ってね」
「誕生日? あんた、今日誕生日だったのか?」
 ニールが驚いたように目を瞬かせた。
「ああ……そういえば、言ってなかったかな。今日で28になった」
 ニールが顔を顰めた。何かまずいことを言っただろうかとグラハムは首を傾げる。
「そういうことは先に言えよな。……くそ、何も用意してきてねえじゃねえか」
「用意?」
「誕生日なんだろ? せめて連絡くれた時に教えてくれてれば、何か買ってきたのに」
 ニールはまだ苦い顔をしていた。何もプレゼントがないことを悔やんでいるようだ。
「気にせずとも、こうして君とこの日に会えたことが何よりのプレゼントだ」
「……そう言われてもな」
 まだニールは納得しかねているようだった。グラハムはニールの生い立ちを聞いたことはなかったが、こういうところを目にすると、普通の家庭で愛されて育ってきたのだと推測できた。きっと、誕生日にはケーキとプレゼントが欠かさず用意されているような家庭だ。
「ああ、じゃあさ、とりあえずって言っちゃなんだけど、今日の食事は俺の奢りってことにさせてくれよ。――何食べたい? せっかくの記念日だ、美味いもの食いに行こうぜ」
 奮発するぜ、と気を取り直したようにニールが提案した。グラハムは、そうだな、と口を開きかけて、その瞬間に思いついたことが我ながらとても名案のように思え、口角を上げた。
「ニール、ならば私は、今日は君の手料理が食べたい」
「はっ? 俺の手料理?」
 ニールが少しばかり間の抜けた声を上げた。グラハムは、そうだと大きく頷く。
「君の手料理が食べてみたい」
「ちょっと、待て。それは、俺が作った料理ってことだよな……」
 明らかに戸惑っているニールを後目に、グラハムは追い打ちをかけるように再び大きく頷いた。
「他に何があるというのだ」
「そう、だよな……つか、せっかく美味いもの食べに行こうって言ってるのに、何で俺の手料理だ? 大したもの作れねえぞ、俺」
「せっかくの記念日だからこそ、君の愛情たっぷりの手料理が食べたい。こんな機会でもなければ、君は首を縦に振ってくれなさそうだ」
「んなこと言ってもなあ……後から不味かったって後悔されてもあれだし」
 どうにも渋っているニールを安心させようと、グラハムはにこやかにはっきりと宣言する。
「心配は無用だ。君が作ったものなら例えどんな出来でもきっと美味しくいただける自信がある」
「……どんな出来でもって、それフォローになってねえよ」
 どうもニールの気には召さなかったようで、軽く小突かれた。
 ニールはそれからもまだ暫くぶつぶつと言っていたが、最終的には折れた。ニールが何だかんだと言いつつも押しに弱いことをグラハムは知っていた。
「本当に簡単なものしか作れねえからな。後で文句言うなよ」
 ニールの念押しを聞きながら、二人で近所のスーパーに寄って買い物をして、グラハムの自宅へと帰りつく。
 ニールが料理をする間、グラハムはキッチンからは追い出されて、一人リビングでTVをつけながら今日貰ってきたプレゼントを眺めたりしていた。
 手持無沙汰を紛らわすように、引っ張り出してきた花瓶に花束に生けてみる。少々不格好にはなったが、ちゃんと収まったそれを、リビングのテーブルの上に置いた。
 暫くして料理ができたとニールが呼びにきてダイニングへと向かうと、そこには二人分の料理がきちんと並べれていた。
「おお、これは見事だな」
「あんまり味は期待するなよ」
 若干疲れたような表情のニールがボソリと呟くように言った。
 テーブルの上には、サラダとパンと、グラハムの好みに合わせてくれたのかマッシュポテト、それからシチューが二皿置かれていた。
「凝った料理が作れなくて悪いけどな」
「十分だ」
 グラハムは以前貰ったワインを取り出してきた。ニールが心得たように取ってきた二つのグラスにそれを注ぐと、乾杯とグラスを重ねて、誕生日の夜の食事が始まった。
 ニールが作ったシチューは、普段食べているものとは少々違う風味がした。
「ラム肉使ってるんだ」
「なるほど、牛肉ではないのだな。味付けもシンプルだが良いものだ」
 やたらと芋がゴロゴロしているのはニールの好みなのだろうか。ニールがジャガイモ好きなことは、今まで見てきてよく分かっている。
「美味しいな、ニール」
「……俺が作ったものならどんな出来でも美味く食えるんだろ」
 少し棘のあるような言い方に、何を根に持っているのだろうか、とグラハムは若干首を捻りつつその言葉を否定した。
「確かにどんなに不味かろうと平らげるつもりでいたが、実際食べてみて本当に美味しいと思っている。それに君の愛情もプラスされて、最高の料理だ」
「……大げさなんだよ。そりゃまあ、自分でも不味くはないと思うが、ありふれた味だろ。――母さんの味には遠く及ばない」
 最後の一言はごく小さな呟きで、グラハムに向けられたというよりも独白に近いものだった。グラハムの耳には届いていたけれど、敢えてそれには触れずに首を振った。
「本当に、心から美味しいと思っている。君が私の為に作ってくれた料理だ。私の為だけに。これ以上の料理などあるはずがない」
「――馬鹿だな、あんた」
 知ってたけど、とニールは僅かに赤らんだ頬を隠すかのように、俯いた。
 今夜は泊まっていくのだろう、というグラハムの誘いをニールが受け入れて、食事の後片付けが済んだ後、交代でシャワーを浴びた。
「ちゃんとしたプレゼントはまた今度……な」
 寝室のベッドに腰掛けて、未だにプレゼントを用意できなかったことを気にしているのか、ニールがそんなことを口にする。
「先ほど、貰ったではないか」
「あれじゃ、ちょっと残念すぎるだろ」
 そんなことはない、今日貰ったプレゼントの中で一番嬉しかったとグラハムは反論するが、ニールの中では納得しきれないらしい。グラハムは一つ息をついた。自分も人のことを言えたものではないが、ニールも相当な頑固者だ。
「ならば、来年。一年後の誕生日にリベンジしてくれれば良い」
「来年――?」
 ニールが虚を突かれたような表情になる。それから、ふっと息をついて「来年、か」と繰り返す。
 その瞳がどこか遠くを見ているようで、グラハムはドキリとする。時々、ニールがそんな瞳を見せることがあった。いつもほんの一瞬のことで、すぐにニールは笑顔になってみせるのだが。
「そうだな、来年――忘れないようにしねえとな」
 ニールはやはりいつも通りに笑顔を作ってグラハムに応えた。グラハムは心に宿る思いの正体がはっきりと分からぬまま、ニールをぎゅっと抱き締めた。
「グラハム……?」
「来年だ。来年の誕生日を、君に祝って欲しい」
「……ああ」
 ニールの手がグラハムの背中に回る。ニールの体温が伝わってきて、それがグラハムの心を落ち着かせた。
 暫しそのまま抱き締めあった後、ニールの手が離れる。二人顔を見合わせてから、今度は徐にニールの顔が近付いてきたと思ったら、グラハムの唇にニールのそれが軽く触れてきた。
 重ねるだけのキスは一瞬で終わり、次の瞬間には、妙に照れた感じのニールがグラハムの目の前にいた。
「何と、君の方からキスをしてくれるとは、珍しいものだな」
「誕生日だからなっ、特別だ」
 素っ気なく言い放たれた言葉と目を反らすような仕草のちぐはぐさが酷く可愛く見えて、グラハムの顔には自然と笑みが浮かぶ。
「せっかくなら、もっと長く深いキスを所望する」
「調子に乗るなよ」
「特別な日なのだから、このくらいの我がままは許容してもらえるのではないかね」
 いつも我がまま言い放題じゃねえかよ、と突っ込みつつも強くは反論できないようで、ただグラハムを睨むような視線が向けられた。けれど残念ながら迫力不足だ。グラハムは小さく声を上げて笑った。
「ふざけて、からかってるのかよ」
「そんなことはない。本心から、私は君のキスが欲しい」
 ニールは少し躊躇する様子を見せながらも、仕方ねえな、と一つ息をつくと再びグラハムに顔を近付けた。
 再度重なり合う唇。少しして、ニールの舌がグラハムの中に割り入ってきた。普段と逆のパターンだ。
 ニールの舌の感触を感じると、グラハムは自分から舌を絡めた。反射的に引こうとしたニールの舌を放すまいと、きつく吸い上げる。
 二人きりの寝室に、くちゅくちゅと水音が響いた。
 そのままグラハムはニールをベッドの上に押し倒し、上着へと手をかける。
 そこから先はいつものごとく。服を脱がし、体を重ね絡ませ合い、深く繋がりながら夜は更けていった。


 それからも何度か逢瀬を重ねたが、その後タクラマカン砂漠での大がかりな作戦、新型ガンダムの登場と物事は急速に動き出し、最後の戦いの時にはグラハムはニールにろくに連絡もとれないまま宇宙へ上がった。
 ガンダムと一対一で戦い、死を覚悟しながらも生き延びたグラハムは、動きがとれるようになって真っ先にニールへの連絡を試みた。
 けれど、ニールの端末へと繋がることはなかった。
 愛想を尽かされただろうか。忘れられてしまっただろうか。ニールはそんな薄情な男ではないと思いつつも、否定しきれず、かといってニールから連絡が入るのではないかという期待も捨てきれないでいた。
 ガンダムとの一騎打ちから生還したものの、グラハムの手に残った物は本当に僅かなものだった。
 共に戦ったフラッグファイターたちが命を散らし、自らを取り立ててくれたエイフマンも殺された。ニールとの連絡もとれず、自分だけが独りここにあるという現実。
 グラハムは寂寞の念を振り切るように立ち上がった。
 そう、感傷的な思いを捨て、再びガンダムと戦う日の為に、グラハムはここへ来たのだ。全てを断ち切る為に。
 グラハムは立ち上がると、いつもの場所へと向かう。
 滝に打たれることで、心に残る迷いを全て捨てられるかと、日課となったその行為に没頭する。いつかまた現れるガンダム、今度こそ決着をつける。そのことだけを考えていればいいのだと、自分に言い聞かせる。それが擬態でも虚勢でもなく、真実自分のものとなる時まで。

   

 滝での「修行」を終えて自室へ戻る。部屋に置いたままになっていた携帯端末に、メールが届いていたようだった。
 誰からだろうと首を傾けた。もうこの端末に連絡をくれるのはカタギリくらいしかいないものだが。そう思いながら開いたメールに、グラハムは目を瞠る。
 そこには、「HAPPY BIRTHDAY」の文字と「Neil Dilandy」という名前が記されていた。
「ディランディ……それが君のファミリーネームか」
 思えば、ニールのことをグラハムはあまりに知らなかった。知っていたのはそのファーストネームと、連絡先の番号とメールアドレスのみ。ニールは決して自分自身を語ろうとはしなかった。グラハムも訊きはしなかった。
 けれど、グラハムはニールからの愛情を疑ったことはなかった。自分たちは確かに愛し合っているのだと、それだけで十分だと、あの頃は信じていたのだ。
 メールの発信元は、彼個人のものではなく、グリーティングメールの送信サービスのアドレスのようだった。
 試しに登録したまま消去できずにいたニールの番号へ電話をかけてみるが、以前の通り「使われていない」のアナウンスが流れるだけ。
 メールにはもう一言、「約束守れなくてごめん。このメッセージが2309年9月10日に、無事あんたに届くことを祈って」という言葉が添えられていた。
 ニールはどこからこのメールを送ったのか。どうやって送ったのか。何か直接連絡できない理由があるのか。彼は無事なのか。
 はっきりとしたことは何も分からなかった。
「もう一度、君に会えるだろうか――」
 グラハムは画面をずっと見つめたまま、小さく呟いた。
「ニール……君に、会いたいな」
 これから己が進む先は修羅の道だ。そう覚悟してきた。それでも。
 送られてきたメッセージを見ていると、ニールの声がまざまざと脳裏に蘇るようだった。それは、久しぶりにグラハムの心に優しく響いた。
 たった数行の短いメッセージに、彼の想いを、僅かな光を感じた。
「いいや、約束通りだ。誕生日プレゼントをありがとう、ニール」
 グラハムは端末を握り締める手に力を込めた。

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